2011年6月アーカイブ

李泰鎭教授らの不成立論について見てみよう

日韓併合条約、1910)をめぐる有効論と無効論の論争と歴史認識について取り上げたもの

無効の根拠は、日朝修好条規にて「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」とされ、日本國と朝鮮國(李氏朝鮮)の二国間条約では自主の国と認めている。しかし、その後の日韓協約や韓国併合ニ関スル条約締結時に朝鮮國側は外務大臣の署名のみで"当時自主の国間では必要とされた批准と署名"[3](朝鮮國国王による)はされず、公布はいずれも日本が単独でおこなっている。そのほかに日韓議定書では「大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事」とされているのに、最終的に併合した日本の条約違反行為なども無効の根拠としている


又、李泰鎭教授等の無効論・不成立論に対して、日本の海野福寿明治大学教授(『韓国併合史の研究』)と坂本茂樹阪神神戸大学教授(『日韓間の諸条約の問題』)が的確に反論している。(肩書きはいずれも当時)。

論語と千字文について

論語と千字文について(『千字文』が成立するのは六世紀)、
王仁と阿直岐

百済から
漢文の書籍などが贈られたことを記す文献に
『古事記』(712年)と『日本書紀』(720)がある。

『古事記』には応神天皇の条に、
百済から和邇(王仁)が渡来して
『論語』と『千字文』を献上したことを次のように記している。

百濟國 若有賢人者貢上 故 受命以貢上人名
和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進

百済の国王は、太刀と大鏡を献上した。
また天皇は百済国に、「もし賢人がいるならば献上せよ」と仰せになった。
そこで、その仰せを受けて献上した人の名は、和邇吉師(わにきし)である。
『論語』十巻、『千字文』一巻を、この人に持たせて献上した。

また、これと内容的に関連する記事を『日本書紀』は次のように伝えている。

十五年秋八月の壬戌(じんしゆつ)朔(ついたち)の丁卯(ていぼう・六日)に、百済王は阿直岐(あちき)を派遣して、良馬二匹を献上した。
(中略)
阿直岐はまた、よく経典を読んだ。
それで太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は阿直岐を師とされた。
そこで、天皇は阿直岐に問われて、「もしかしてそなたよりも勝れた学者はほかにいるか」と仰せられた。
答えて、「王仁という人がいます。これは秀れた人です」と申しあげた。
それで上毛野君(かみつけののきみ)の祖荒田別(あらたわけ)・巫別(かんなぎわけ)を百済に派遣して王仁を呼びよせた。
この阿直岐は阿直岐史の始祖である。

十六年春二月に、王仁は来朝した。
そこで太子は菟道稚郎子は王仁を師とされ、種々の典籍を王仁より習われた。
その結果、すべてに精通された。
王仁は書首(ふみのおびと)の始祖である。

つまり、応神天皇十五年の秋八月に
百済から阿直岐(阿知吉)が来朝したが、
彼はよく経典を読んだので太子は彼に師事した。

また翌十六年二月には阿直岐の推挙によって王仁が来朝し、
太子は王仁について諸典籍を学んだが、深くすべての道に通じるようになった、というのである。

ここに言う応神十五年は
『日本書紀』の紀年(皇紀元年[西暦紀元前660年]から数えた年数)では
西暦284年に相当するが、おそらく120年ほどの誤差があって、実際には五世紀初頭のことであったろうと考えられている。

これらの記事がどの程度まで史実に忠実であるか、疑問はのこる。

ただ『古事記』で
照古王(肖古王)が献上したと述べる太刀と大鏡が、
関連させて考えられている前引の『日本書紀』に記されている
七枝刀(ななさやのたち)と七子鏡(ななこのかがみ)と同じものとすれば、
その銘文に記されている泰和、つまり大和四年(369)は、百済王が日本とともに高句麗を攻撃した年にあたる。

したがって、阿直岐・王仁に関する話は、
多少の脚色はあっても、日本が朝鮮に進出していたころとだいたい時は重なる。

すなわち
四世紀末ないし五世紀の初めのころには、
阿直岐や王仁のような百済からの学者によって、
すでに朝鮮半島に伝わっていた漢籍が日本にももたらされ、
一部の上層階級の人によって、本格的な漢字・漢文の学習が行なわれはじめた
と推測しても大きな誤りはないであろう。


『千字文』の伝承をめぐる謎

ところで、この『千字文』については疑問が二つある。
その一は『千字文』が最初に日本列島にもたらされた年代についてである。

『千字文』の作者である梁の周興嗣(しゅうこうし)は、
劉宋の末、西暦470年ごろに生まれ、梁の普通二年(521年)に没した学者である。

先に述べたように、『千字文』が渡来したのは、
『日本書紀』によると応神天皇十六年(284?)のことであった。

第一代の神武天皇が即位した年、
つまり皇紀元年を西暦紀元前660年とする日本古代史の紀年を
そのまま信じれば、応神天皇十六年は西暦285年(西晋・武帝の太康六年)にあたる。
この年は周興嗣の死より230年も前になる。

このくいちがいについては、日本では江戸末期から論じられてきた。
これまでの見解は次のように大きく三つに分かれる。

その第一は、『千字文』と記したのは
『古事記』の誤りであって、日本に伝えられたのは『千字文』よりもっと古く、
中国で編まれた同類の字書(識字のテキスト)である前漢・司馬相如(しばしょうじょ)の
『凡将篇』(はんしょうへん)、前漢・史游(しゆう)の『急就篇』(きゅうしゅうへん・『急就章』とも)か、秦の『蒼頡篇』(そうきつへん)であったとする説である。

第二は、
梁の武帝(在位502〜549)以前から、
周興嗣の『千字文』の原型があったとする説である。

周が『千字文』を著したことは、
正史の『梁書』の列伝や他の史料に明記されているが、これに対する異説である。

その作者とされるのは
魏の「鍾よう」(151〜230)である。
彼は曹操が袁紹(えんしょう)と戦ったとき、
馬二千匹余りを届けさせたと『三国志』に登場する政治家・書家である。

『宋史』「李至伝」によれば、
梁の武帝が、鍾ようの筆跡が石碑に刻されていたのから拾って、
それらの字を周興嗣に命じて韻文につづらせたもの、それが『千字文』だという。
同じ説は他の史料にもみえる。

また小川環樹によれば、日本に伝わった古写本の、
六世紀後半の学者といわれる李暹(りせん)による序文は
「千字文は魏の大尉「鍾よう」の作る所」であって、洛陽の宮中に秘蔵されていた
「鍾よう」の筆跡を東晋の元帝(在位317〜322)が秦の王義之(おうぎし・307?--365?)
に命じてその写本をつくらせ、その文字を文意が一貫するように組みかえて別の韻文にしたのが周興嗣であると述べる。

この説にしたがえば、『日本書紀』中の『千字文』は「鍾よう」が著したものとなる。
ただ、この書は偽作であるとする説もあり、いまは偽作説のほうが有力である。

第三の見解、それは、日本古代史の紀年が故意に初期の天皇の治世を引きのばした結果、大きなくいちがいが起こったとする説である。
今日ではこの見解が広く認められているようである。


もう一つの疑問は、『千字文』が日本にもたらされた事情である。

『論語』は言うまでもなく儒学のもっとも基本的な聖賢の書である。
いわば中国の精神文化を端的に伝える書物として贈られたと理解できるが、それと並んで『千字文』が選ばれたのは何故であろうか。

「天地玄黄、宇宙洪荒」
(天の色は黒く、地の色は黄色であり、空間や時間は広大で、茫漠としている)
ではじまる『千字文』は、四言(四字句)の韻文でつづられた一千字が集められていて、久しいあいだ中国の(のちには朝鮮や日本でも)児童たちが漢字を学ぶテキストとして用いられてきたことで知られる。

しかし、もともとは、漢字のテキストではなく習字の手本として作られたらしい。
唐の「李しゃく」の『尚書故実』は次のように記している。

梁の武帝は王子たちに書を習わせるため、王義之の筆跡の中から重複しない文字一千字の標本を作らせたが、一時ずつの破片であって、ばらばらで順序はなかった、
武帝は周興嗣をよび出し、「これを韻文になるように考えてくれ」といった。
そこで周興嗣は一晩かかってこの一千字を用いた整然たる韻文一篇を作り、武帝にたてまつったが、その苦心のため髪の毛がまっ白になった、という。
(小川環樹『千字文』「解説」による)

記事に登場する王義之は書聖と呼ばれ、「蘭亭集序」などで知られる東晋の書家である。
『千字文』を識字のテキストとしてみるならば、すでに指摘されているように、そこに収められている一千字は十分ではない。

数字でも一から十までのうち、一・三・六・七が欠けている。
方位を示す字として「東・西・南」はあるが「北」がない。
四季を示す「夏・秋・冬」はあるが、「春」がない。
「海・川」はあるが「山」がない。
このように必要と思われる実用字が欠けていて不完全なものと言わざるをえない。

にもかかわらず、この書はだんだんと広まっていった。
識字のテキストとしては、前漢・元帝(在位、前48〜前33)の世の人、「史ゆう」が編んだ『急就篇』が北朝で大変流行していた。
大学者として名高い顔之推(がんしすい・531〜602?)もその注を著したほどである。(『唐書』「経籍史」)。

ところが、南朝で新たに作られた『千字文』は『急就篇』にとってかわり広く用いられるようになった。
その理由は、小川環樹も指摘するように、何よりも用字が多方面にわたっているうえに、故事、古人の逸話などをよみこんだ美文であり、韻をふんでいるので朗読し暗記するのに適した読本であったからであろう。
『急就篇』も韻文になってはいたが、同類の字を並べた分類語彙集のようなもので、巧みにつづられた『千字文』にはとても及ばなかった。

さらに『千字文』が中国で流行したもう一つの原因は、右で引いた史料の説が正しければ、それが王義之の筆蹟を集めたもので、東晋からの新しい草書体の手本とされたからであろう。

このように中国で大いに重んじられた『千字文』は南朝と交流のあった百済にもたらされた。
百済の人々は『千字文』をただの識字テキストではなく、豊かな土壌に育まれた、まさしく <漢字文化> の精髄を伝える書として受け止めたのではないだろうか。
そのような認識があったからこそ、日本に贈る書物の一つとして『千字文』を選んだのではないかと思われる。

このような背景を理解すれば、いささか不釣合いな感じを受ける儒教の経典と識字テキストの組み合わせも納得がいく。

以上が第二の疑問に対する一応の回答である。
やがて日本でもこの書は漢字学習のために広く用いられるようになる。

東京裁判の判決は間違いだったと証言したのと同じです
東京裁判では、日本の領土拡張について、一言も侵略と言う言葉は使われておらず、すべて進出(advance)

日米戦争においてアメリカ軍を率いて日本と戦ったのは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥でした。
マッカーサー「自衛戦争」証言. 昭和26(1951)年5月、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で、ダグラス・マッカーサーは以下の2つの重大な発言を行なった。 ちなみに、この「爆弾発言」は彼の証言から三日後の5月6日、『ニューヨーク・タイムズ』紙に全文が掲載され


これによりマッカーサーの認識した日本の戦争目的が様々に解されている。 日本の自衛戦争であった。

朝鮮の髪型史

朝鮮の髪型史
時代 変化による女性頭の変遷史

女性の頭は時代によって変化する. 一時代が女性に願う価値観は女性の髪模様に多い影響を及ぼす. 昔には髪模様によって身分が区別されたりしたし結婚の有無を現わしたりした. 三国時代から今日まで 我が国の女性たちの髪模様がどんなに変化したのかその移り変わり過程をよく見る.
http://www.woorizine.or.kr/woorizine31/htm/special_01.htm

オンウンモリやチォックモリはもう三国時代から流行ったヘアスタイル

三国時代の 髪模様は壁画を通じて見当をつけることができる. 昔から男より女達の髪模様がずっと複雑だったが TV 史劇ドラマを通じて私たちがよく見る 'オンウンモリ'や 'チォックモリ'はもう三国時代からして来たヘアスタイルだ.
高句麗ではオンウンモリやチォックモリ外にもプンギミョング頭(頭を三つで分けて一束は後にして二つの束は 左右のボルチォックに垂らす髪形)と縛った蒸発頭(短い髪を後から低く縛った髪模様)が広く 広がっていた.


百済では既婚と 未婚の仕分けが髪模様に現われるのに娘たちは一本で長く頭を結って伸ばしている途中婚姻後にはふたつで 分けて頭の上に上げた. 新羅は文献上の記録で見る時オンウンモリが流行ったように見える. また, 唐に 礼物に送るほどかつらを作る技術がすぐれたと言う.

高麗時代には髪模様が身分の区別なしに等しかった. 三国時代のようにオンウンモリとチォックモリが一番多くするヘアスタイルだったが後れ毛を糸巻きのように振って右側肩に垂れることで新しいスタイルを追い求めたりした. 右側肩に垂れた後れ毛は高麗時代女性たちの美意識を現わす部分と同時に可愛らしさを強調した髪形だ.

高くて 大きいほど美しく思われた朝鮮時代のヘアスタイル

髪模様に神経をたくさん使って派手な飾りを追い求めた時代は朝鮮時代だ. 朝鮮時代はまず王家と両班, 平民, 芸者など身分と階級によってできる髪形が違った. 娘たちがたくさんする後れ毛の場合も両班加衣箱入り娘たちは後れ毛で耳を覆って一般娘たちは耳を覆うのなかったと言う. 朝鮮時代髪模様の中で一番派手な頭は王妃が征服身なりに上げるトグだ頭で足(かつら)を 7個上げるグングズングオヨモリに木を削って作った飾り用嫁ぐ形態の頭だ. 足一軒にひとりの方の髪の毛が入って行くことを念頭に頭面この頭の場合本人頭まで合わせて 8人前の嫁ぐわけになる.

婦女子たちの間でもオンウンモリを大きくて高くするほど美しいことで思われて成宗の時には頭の高さが四方 1尺もなったし頭を飾る足がなくて婚姻が延ばされる事も起こった. 頭による贅沢がひどくなると本当に情調の時にはがチェグムジリョングが下ろされたりした.
朝鮮時代娘たちの代表的な髪模様はテンギ髪の毛だ. 娘たちはテンギ髪の毛をしている途中婚姻前日慣例で頭をあげてかんざしをさすことで婦女子たちの髪模様に変わった. この時花嫁の頭を上げてくれる人の手を '復讐'(福手)と言ったが花嫁の友達や親戚の中で厳選して選んだし適当な人がいなければお金をくれて人を招待したりした. 言わば今日の美容師にあたる人々だと言える.

女性の 自意識を現わしたおかっぱの髪

開花期の時には女性たちの頭がまだ娘たちはテンギ髪の毛, 奥さんたちはチォックモリが 代表的だったが 1920年代最初の美容室とヘアデザイナーが登場しながら徐徐に新しいスタイルが流行った.

1920年代を代表するヘアスタイルはおかっぱの髪だ. 1次世界大戦に敗れたドイツ女性たちが心機先日のためにおかっぱスタイルを開発, 全世界的に広がったとするのに我が国の場合初めておかっぱをある女性はガングヒャングランや姜名画みたいな芸者たちだった.


男性たちのおかっぱが近代化の象徴のように思われたことと違いこの時代女性たちのおかっぱは伝統的な女性の役目を拒否する 伝統破壊行為で受け入れられた. 特に初めにおかっぱを一女性たちが芸者だったという身分は人々の口に上る言葉尻を 提供した. しかしこれらのおかっぱは既存の価値観を拒否して女性の自意識を現わした先駆け的な行動だった. そうさにも 伝統的な女性の役目が強調された時代だった位金活蘭, モユンスック, 崔承喜など新女性たちのおかっぱの髪はモダンゴルだと 殖やして冷笑的な諷刺にあったりした.
時代によって少しずつ変化するヘアスタイル

1930年代からはパーマネントが普及されながらパーマ頭が流行った. こんなパーマスタイルは倦まず弛まず 女性たちの間でひろがって行って 1950年代は美容室が大衆化されるのに至る. 映画が普及されながら外国映画俳優たちのヘアスタイルが 旋風的な人気を呼んだ. 'ローマの休日'に登場するオードリー・ヘップバーンの髪形はヘブボンスタイルと呼ばれながら 1950年代 女性たちの間で大きく流行った代表的なヘアスタイルだ.

1960年代は産業化の波とともに女性たちの髪模様にも多様なスタイルが追求された. ウチマキ, ソドマキ, ひさごスターである, 白鳥ラインスターななど多くの形態の髪模様が登場した. この時にはまたかつらが大きく流行ってかつらで頭を脹らましてゴデ機で飾り的なカールを作る頭が流行ったりした.

1970年代はパスポート運動が活発で伝統的なソングヨックハルに対して女性たちが多い疑問を申し立てる時期だった. したがって活動性を 強調する簡潔な髪模様が大きく流行った. 短い刈り上げルック, 中性的な感じを与えるスェギ(乞食カット), きのこ模様の モスィルムがこの時期に登場したヘアスタイルだ.

1980年代はオイルショックによる社会的不安を反映するように誇張されるように脹らました前髪や不規則なパーマスタイルが流行った パーマ全盛時代で言える. 1990年代は長い髪の太いパーマ頭やストレートが人気を呼んだし若者達を 中心に多様な髪色の染め付けが流行った.
多様な色の頭染め付けは今も普遍的に行われている. 最近復古風の流行などがまた渡来したりするが 現在には画一的な流行スタイルを追い求めるより自分の個性を重要視して自分にあうヘアスタイルを尋ねる成り行きだ.


僅か2019名(その内、日本人は1007名)だけの「憲兵警察」
朝鮮半島における1910年末の警察官数

韓国併合時の憲兵の数は、すべてで僅か2019名であった。
しかも、そのうち憲兵補助員の1012名は朝鮮人であった。
すなわち、日本人の憲兵数は1007名しかいなかった(水田直昌「統監府時代の財政」友邦協会)。

これが22万平方キロメートルの朝鮮全土に散らばって配置されたのである。
文民警察官は5693名いたが、その半分以上の3428名は朝鮮人であった。
このような数字を見ると、韓国の歴史教科書が小説じみていることが解るだろう。


日本の「憲兵警察」は、当時の朝鮮人全体に受容され、強く支持されていた。
そうだから、このような僅かな数の憲兵が朝鮮全土にミニ小部隊ごとに別れて展開しても安全であった。

漢字を放棄することができるか

大木章のコラム「漢字文化圏と日中両国で学び使われる漢字の諸事情」を公開し、漢字を公用語 ... 使っているのは、中国と日本だけでであり、ベトナム、韓国、北朝鮮は漢字を放棄し、独自の文字を今は使っていると報告した。

ベトナム、韓国、北朝鮮は漢字を放棄し、独自の文字を今は使っています。なぜなのでしょう。逆に、日本はなぜ漢字を独自の文字に変えなかったのでしょうか。答は中国と地続きかどうかに関係していると思います。

どうして、朝鮮で漢字が使われなくなったと言いますと、漢字は<日本統治時代>の残滓と見なされたからです。 ... 日本統治時代>が始まる前までは、朝鮮人は<漢字>を使っていました。分断国家であるため、ナショナリズムを必要以上に喚起して自国の優位を協調しなければ国がもたないためだと思います。

ロシア系の若手韓国研究者である パク・ノジャ(朴露子)氏のエッセイ
ハングル文字が一辺倒になっている韓国社会で、漢字を排斥することを嘆いてます

隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に ... 制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとがある。

この像は韓国ソウルの国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像と全体の様式がよく似ている。同時期の朝鮮の木造仏で同型のものは残っていないが、広隆寺像も元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らか


『韓国が「海洋条約拒否宣言書」を提出した事により日本は、「国際海洋法」より拘束力のある「国際連合憲章」を持ち出す事が出来るようになった。』

1、韓国は、国際海洋法裁判所へ強制的な紛争付託を拒否する宣言をした。
2、日本は仲裁裁判所に付託することができる。
3、日本は安全保障理事会に付託する道が開かれる。
今北朝鮮で忙しいのに安全保障理事会に持ち出すのは気がひけますね(汗)いずれにしても韓国の見苦しい対応(笑

日本が朝鮮を植民地化していた頃のことなのですが、このサイトではハングルを禁止していたと ... 朝鮮語禁止ではもはやハングルの授業などできない気がします。どこか矛盾していませんか? 参考になった:0件 ... 欧米との植民地政策とを区別する為に朝鮮半島にインフラ整備して植民地ではない! というアピールをする為にハングルを教育させたと思います。 ... 戦中で余裕の無くなった時には日本語かハングルかどちらが優先されるのか。 それを考えていけば少しは見えるんじゃないでしょうかね ...

新羅本紀第三・第十七代 奈勿 尼師今

新羅本紀第三・第十七代 奈勿 尼師今(在位 AD356-402)

2年(AD357) 二年 春 發使撫問鰥寡孤獨 各賜穀三斛 孝悌有異行者 賜職一級

2年 春、使者を派遣して男やもめと孤独な者を慰問し、それぞれ穀物三斛を賜った。
孝行者、長者に従順なもの、優れた行いの者に、職一等級ずつを賜った.。
(斛=石)

3年(AD358) 三年 春二月 親祀始祖廟 紫雲盤旋廟上 神雀集於廟庭

3年 春2月、王自ら始祖廟を祭ると、紫色の雲が廟上に丸く立ちこめ、神雀が始祖廟の庭に集まって来た。

7年(AD362) 七年 夏四月 始祖廟庭樹連理

7年 夏4月、始祖廟の庭にある二本の木の枝が一つに連ねた。

9年(AD364) 九年 夏四月 倭兵大至 王聞之 恐不可敵
造草偶人數千 衣衣持兵 列立吐含山下 伏勇士一千於斧峴東原
倭人恃衆直進 伏發撃其不意 倭人大敗走 追撃殺之幾盡

9年 夏4月、倭の兵が大挙して侵入してきた。
王がこの報告を聞いて、(倭軍の兵力に)対抗することができないことを考慮して、草人形を数千個も作り、服を着せて、兵器を持たせ、吐含山の麓に並べ、勇士一千人を斧峴の東野原に伏せておいた。
倭人が自陣の数の多さを信じて直進すると、隠れていた兵士が不意打ちの攻撃をしかけた。
倭軍は大敗して逃走したので、追撃して倭兵をほとんど殺した。

11年(AD366) 十一年 春三月 百濟人来聘 夏四月 大水 山崩十三所

11年 春3月、百済人が来訪した。
夏4月、大水になって13ヶ所て山崩れがあった。

13年(AD368) 十三年 春 百濟遣使 進良馬二匹

13年 春、百済は使者を派遣して、良馬二匹を捧った。

17年(AD372) 十七年 春夏大旱 年荒民飢 多流亡 発使開倉廩賑之

17年 春から夏にかけ大旱魃があり、穀物が稔らず、民は飢えてさすらうものが多かったので、使者を派遣して、穀物倉庫を開いて彼らに施しを与えた。

18年(AD373) 十八年 百濟禿山城主 率人三百来投 王納之 分居六部
百濟王移書曰 両國和好 約為兄弟 今大王納我逃民 甚乖和親之意 非所望於大王也 請還之
答曰 民者無常心 故思則来歝則去 固其所也
大王不患民之不安 而責寡人 何其甚乎
百濟聞之 不復言
夏五月 京都雨魚

18年 百済禿山城の城主が300人を率いて来降してきて、王は彼らを受け入れて六部に分けて住まわせた。
百済王が国書を送って言った。
「両国が国交を結び、兄弟になることを約束したが、今大王は我が国から逃げた民を受け入れている。
和親の意味とははなはだしく乖離しているが、これは大王の望むところではないだろう。どうか彼らを返してほしい。」
(王が) 答えて言った。
「民には決まった心がない。だから思えば来るし、嫌になれば去る。
(彼らの欲する)ところに安住するものです。
大王は(あなたの国の)民の不安に配慮しないで、私を何故そんなに強く責めるのですか?」と言った。
百済ではその返事を聞いて二度と言わなかった。
夏5月、王都に魚が降った。

21年(AD376) 二十一年 秋七月 夫沙郡進一角鹿 大有年

21年 秋7月、夫沙郡が一角の鹿を捧った
大変に豊作年になった。

24年(AD379) 二十四年 夏四月 楊山有小雀 生大鳥

24年 夏4月、楊山で小さな雀が大きい鳥を生んだ。

26年(AD381) 二十六年 春夏旱 年荒民飢
遣衛頭入符秦 貢方物 符堅問衛頭曰
卿言海東之事與古不同 何耶
答曰 亦猶 時代変革 名號改易 今焉得同

26年 春から夏にかけて日照りが続き、穀物が稔らず、民たちが飢えた。
衛頭を符氏の秦国に派遣して、物産を捧げた。
符堅が衛頭に問うた。
卿は海東の事情を報告したが、(国名が)昔と同じでないのは何故か?

[衛頭が] 答えた。
このことは丁度、中国の王朝の変革や、国号の改変のようなもので、、(昔のことと)今とはどうして同じでいられましょうか?



33年(AD388) 三十三年 夏四月 京都地震 六月 又震 冬 無氷

33年 夏4月、王都に地震が起きた。6月にまた地震が起きた。
冬に氷がはらなかった。

34年(AD389) 三十四年 春正月 京都大疫 二月 雨土 秋七月 蝗 穀不登

34年 春正月、王都で疫病が流行した。
2月に土が雨のように降った。秋7月、蝗の災害が発生し、穀物が稔らなかった。

37年(AD392) 三十七年 春正月 高句麗遣使 王以高句麗強盛 送伊大西知子實聖為質

37年 春正月、高句麗が使者を派遣してきた。
王は高句麗の国力が強大な、伊の大西知の息子・実聖を人質として送った。

38年(AD393) 三十八年 夏五月 倭人来圍金城 五日不解 将士皆請出戰
王曰 今賊棄舟深入 在於死地 鋒不可當 乃閉城門 賊無功而退
王先遣勇騎二百 遮其歸路 又遣歩卒一千 追於獨山 夾撃大敗之 殺獲甚衆

38年 夏5月、倭人が侵入してきて金城を包囲し、5日間も解かなかった。
将軍達はみな外へ出て戦いたいと願ったが、
王は「今、賊軍は船を捨てて 内陸の深くへ入り込んで、いわゆる死地にいるから、その鉾先は防ぐことができない」と言って、城門を閉ざして、(持久戦に持ち込むと)賊軍は成果がなく退いた。

王は先ず勇敢な騎兵200人を先に派遣して、賊軍の帰路を阻んで、歩兵一千人を派遣して独山にまで追いこんで、挟み撃ちにして倭軍を大敗させ、多くを殺したり捕らえたりした。

40年(AD395) 四十年 秋八月 靺鞨侵北邊 出師 大敗之於悉直之原

40年 秋8月、靺鞨が北部国境を侵犯したので、軍隊を出して、彼らを悉直の原野で大敗させた。

42年(AD397) 四十二年 秋七月 北邊何瑟羅 旱蝗 年荒民飢 曲赦囚徒 復一年租調

42年 秋7月、北部地域の何瑟羅では、日照りが続き、蝗の害で穀物が実らず、民は飢えた。
そこで特別に囚人を許して、一年間の租と調を兔除した。
(何瑟羅=かしつら・江原道江陵市)

44年(AD399) 四十四年 秋七月 飛蝗蔽野

44年 秋7月、蝗が飛んで原野を覆った。

45年(AD400) 四十五年 秋八月 星孛于東方 冬十月 王所嘗御内廐馬跪膝流涙哀鳴

45年 秋8月、星が東方で光輝いた冬
10月、王が内廐の馬に乗ったところ、ひざまずいて涙を流して哀れな声で泣いた。

46年(AD401) 四十六年 春夏旱 秋七月 高句麗質子實聖還

46年 春から夏にかけて日照りが続いた。
秋7月、高句麗の人質になっていた実聖が帰国した。

47年(AD402) 四十七年 春二月 王薨

47年 春2月に王が薨去した。
2005年5月29日

対馬はどこに所属している国やねん?

1420年頃・当時の曖昧な対馬の境界的な性格について
対馬はどこに所属している国やねん?日本OR朝鮮?

1419年「応永の外寇」の後、対馬と朝鮮の関係が一時断絶する。

こうなると困るのは、
朝鮮との交易を主な生活の手段としている対馬人の方で、なんとか交易を復興させようとする。

そこで1420年、
「時応界都」または「辛戒道」?なる対馬人が、
宗都都熊丸(後の貞盛)の使者と称して、朝鮮へ渡った。

時応界都は、
「対馬島は土地が痩せており、生活がとても困難です」と訴え
「もし我が島を、貴国境内の州都と同様の一州として、
都都熊丸に印章を賜れば、貴国に臣としての節義を尽くしましょう」、、、と上宣した。
(世宗2閏正己卯)

これを受けた国王・世宗は、対馬を慶尚道の所属として、
上申は必ず同道観察使を介するように命じて、「宗氏都都熊丸」 という印文の印章を対馬へ送った。
(閏正壬辰)


ところが、その後、都都熊丸の意を受けた別の使者・仇里安が現れ、この措置に強く抗議した。

礼曹問う。
「前書曰く、『対馬島が慶尚道に隷するの語、
これ史籍に考え、之を父老に訊くも、実に拠る所なし』と。

本島の慶尚道に隷するは、古籍に昭然たり。
且つ、汝の島の使者・辛戒道亦言う、『本島は、もと大国牧馬の地なり』と。
故に此より前、汝の島をして、
凡そ事、皆慶尚道観察使に報じて以て、聞せしむるは、此を以てなり。
朝廷、汝の土地を争わんと欲するにあらざるなり」と。

仇安里曰く
「本島の慶尚道に属する事、己の知らざる所なるに、戒道、豈に能く独り知らんや。
必ず是れ妄言ならん。
仮に本島をして慶尚道に属せしむると雖も、
若し無綏(ぶすい)せざれば、必ず声教に外(はず)れん。
本より属さずと雖も、若し是を撫するに恩を以てすれば、誰か敢えて服せざらん。

対馬島は日本の辺境なり。
対馬島を攻めるは、是れ本国を攻めるなり。.....」
(世宗34己亥)

仇安里は
「辛戒道の言は、こちらの関知する処ではない。
対馬が慶尚道に属するなどという説は、史
籍をひっくり返してみても、長老に尋ねてみても、全然、根拠が解らない」
と主張した。

朝鮮側は、
「その事は古籍にはっきり書いてあるし、慶尚道の所轄としたい」と説明した。
しかし、仇安里は納得しない。
ついに、
「対馬は日本の辺境だから、対馬を攻める事は、日本の本国を攻める事と同じだ」と言い出した。

この問題は、
対馬側の強硬な申し立てに朝鮮側が折れ、
対馬の所属は元通りとなって、決着した。

しかし、「対馬は日本の所属」という命題を、朝鮮側が呑んだわけではない。

後に編纂された官撰の地誌『新増東国興地勝覧』では、
対馬島は釜山浦などと共に、慶尚道東莱県の項に掲げられている。

「則ち日本国対馬州なり、旧(もと)我が鶏林(慶州の雅名)に隷す。
未だ、何時に倭人の拠る処と為ったのかを知らない」、、、と説明されている。

また、1524年の政府高官の発言に、「日本・対馬は輔車相依の国」とある。
(中宗37-5乙未)

このように、対馬を日本とは別の独自の領域だとする見方は、朝鮮側では常識だった。


倭人の側にも、この見方をする者がいた。
辛戒道の発言に明らかだ。
彼が宗氏の使者だというのは偽りで、
対馬で朝鮮交易に携わっていた人々の中で宗氏とは違う立場を代表する者だと考えられる。
彼らにとって、対馬が日本・朝鮮のどちらかに属するか?
といった事より、朝鮮半島との交易を維持する事こそが大事だった。

日本人にも、大内氏のような西国大名の口からも、
「さきに聞く、大内殿に言あり、「対馬島はもと朝鮮の地なり。
我、兵を興して往伐せん。
朝鮮、之を挟撃して、以て牧馬の島と為すが可なり」、、、、、と。

この時1451年。
大内殿は教弘(のりひろ)で、
1447年頃には幕府から筑前守護職に任ぜられて、宿敵の少弐教頼を対馬へ追い払っていた。

少弐教頼は宗貞盛を頼って対馬に逃げたわけで、
少弐=宗のラインに対抗して、大内氏が政治的意図から発言したわけだ。


かといって、朝鮮側も素直に喜べなかった。

大内氏が少弐=宗に勝った場合、
敗者は必ず窮寇となって、あちこちで海賊行為に走るだろう。
そのうえ、対馬島は日本の片隅にあり、我が国の鎮防となっている者も多い。
これが負ければ、、どのような倭の変が起こるか解らない。

この2年後、大内教弘は、朝鮮国王・端宗から、
通信符を与えられ、朝鮮通交上ぬきんでた優位を獲得した。

中世倭人伝 岩波新書 新赤版 (274)村井 章介著より 改編
2005年02月25日

宋書 百済伝の読み

『宋書』百済伝. 百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。 百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったが、その後、高句麗が遼東を略有すると、百済は遼西を略有した。

大明2年(458,蓋鹵王4年)に蓋鹵王が王族を含む11人の臣下に爵号を賜ることを請う記事が見える。ここに征虜將軍左賢王余昆とあるが、これがまさに昆支と思われる。

百済王余慶(蓋鹵王)が458年に宋に上表文を提出し、余紀ら11人が将軍の号を授けられているが、その中に征虜将軍の軍号を授けられた余昆という人物がみえる。余昆は百済では左賢王の称号を帯びていた。

跪き

ブラント首相のワルシャワ・ゲットーでの真意は、、、?
「私は、ポーランド側を困惑させたようだ」

相殺された過去
議会演説は日程にはなく、ブラントは、その7日の晩餐会のスピーチでポーランド首相に語りかけた。

「今日は、我が国民と私自身にとって、あなたの国民に与えられた大きな苦難、そしてまた、
我が国民が味わなければならなかった重い犠牲について、痛ましい記憶を思い起こさせる日です。....
1939年以降の数年間は、比べるものない、最も暗い期間でした。それを消し去る事は出来ません。」

ドイツ政府に残るスピーチ公式記録によると、第二次大戦についてのくだりは、これだけだ。
「我が国民が味わなれればならなかった重い犠牲」という言葉が注目される。
単に戦災にあったと言うだけではなく、ポーランド人によるドイツ人への非道な行為も暗に指しているはずだ。

ソ連の独裁者スターリンは、占領したポーランド東部の領土を戦後も手放そうとはしなかった。
その代わり、ポーランドに対し西部で埋め合わせをしてやるため、ドイツとの新国境をオーデル・ナイセ線とする事を主張した。
これにより、ドイツは領土のおよそ4分の1を失う事になり、そこにいたドイツ人住民は、強制的に移住させられた。
西側連合国も、これを容認した。

ドイツ政府のデータによると、この新ポーランド領を含め、終戦時にソ連・東欧地域にいたドイツ人1173万人が今のドイツ領内へ追放された。
そのさい、ヒトラー時代の報復としてリンチや強姦が行われ、衰弱死、病死をあわせドイツ人210万人が死亡または不明となった。
ブラントの晩餐会のスピーチでは、謝罪どころかドイツ人の犠牲を持ち出し、侵略の相殺を試みたようにさえ思われる。
では、何故、跪いたのだろうか?

「ポーランド侵略への許しを請うものだったと、見なす事は出来ないと思います」
とうのユダヤ人社会は、どう考えたのだろうか?
ドイツ国内で発行されている「ユダヤ人一般週刊誌」(AJW)のユディット・ハルト編集長は言う。
「ポーランド人ではなく、ユダヤ人犠牲者に向けられたものでした。
もちろん、ポーランド市民権を持っていたユダヤ人もいましたが、ポーランドでは反ユダヤ主義がはびこっており、
彼らの殆どは、自分が社会の一員だとは考えていなかったのです。」

回想録でブラントはこう続けている。
「私は、ポーランド側を困惑させたようだ。
あの(跪きの)日、ポーランド政府の誰も、それについては話しかけなかった。
したがって、彼らも歴史のこの部分を、まだ清算してはいないのだ。と私は判断した」

戦後の一時期も、ポーランドの共産主義政権によって、反ユダヤ政策がとられた。
つまり、対ユダヤ人に関しては、ポーランドの政府も国民ももどちらかと言えば、加害者の立場にあった。
ゲットー記念碑の前での跪きが「ポーランド側を困惑させたようだ」とブラントが記したのは、そのためだったと思われる。

 白村江は未曾有の敗戦だったのか?
唐・新羅の相次ぐ来日
自信に満ちた倭国の、守りを固める強気な姿

偽証が氾濫する法廷

韓国人は日本の671倍嘘つき・誣告は日本の4100倍

偽証が氾濫する法廷 2003/02/13
朝鮮日報
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/02/13/20030213000039.html


何の罪もない人を罪人に仕立て上げ、
罰を受けるべき人の罪を覆い隠す「偽証」が法廷ではこびっている。

偽証とは民・刑事および行政訴訟などで、
事実を明らかにするために裁判に出頭した証人が嘘をつくこと。
検察が起訴した偽証事犯は2002年1343人。98年の845人に比べ4年間で60%近く増えている。

検事が同席している刑事裁判はまだいい方だが、
民事裁判は「嘘の競演場」だという言葉が出てくる程だ。

特に、偽証自体がほとんどないに日本とは統計だけでもはっきりとその違いが分かる。

2000年の場合、韓国で偽証罪で起訴された人が1198人であることに比べ日本は5人だった。
韓国と日本の人口の差を考慮した場合、国内の偽証が日本の671倍に達するというのが最高検察庁の分析だ。

偽証がこのように多い理由は、
嘘を大したことと思わない社会の風潮と、
「情」にもろい韓国の文化が最も大きな理由だと判・検事は話す。

清原地方裁判所・晋州支部の
尹南根・部長判事は「親しい人に不利益を与えたくないという理由で、
証人としての出頭を極力避け、出頭したとしても『思い出せない』と答えるケースが多い」と話す。

尹部長判事は
「このような証人は悪人というよりは、
他人に悪いことを言えない典型的な韓国人である」と付け加えた。

偽証に対する処罰が軽いのも原因のひとつとして挙げられている。

2001年、全国の裁判所が
処理した計846件の偽証事件のうち、
実刑が宣告されたのは181件(21%)だった。

同年、刑事裁判全体(20万件)の中、
実刑が宣告された事件は25%水準の5万件だった。
偽証罪は故意性が強い場合、最高懲役10年まで宣告することができるが、軽い処罰で済むケースが多い。

こうした現実は外国と比較するとさらに浮き彫りになる。
ビル・クリントン前米大統領は2001年11月、米連邦最高裁に弁護人リストから除名された。
ホワイトハウス元実習生のモニカ・ルインスキーとの性スキャンダルなどで偽証したことに対する厳しい代償だった。

クリントン前大統領は
これに先立ち、アーカンソー州でも弁護士資格を停止された。
嘘を容認しない文化がこうした措置の背景にあるというのが法曹人の見方だ。

米連邦最高裁傘下の量刑委員会が作った「連邦量刑指針」によれば、
偽証罪は最低でも懲役10~16ヵ月を宣告し、減刑できないように定めている。

最高検察庁の金賢雄公判訟務課長は
「偽証は真実を究明する司法機関の業務を妨害し、
結局は国の公権力に対する不信も招くことになる」と述べた。

朴世鎔(パク・セヨン)記者

'誣告' 日本の 4100倍 2005/04/11
NAVER・ニュース
http://news.naver.com/news/read.php?mode
=LSD&office_id=086&article_id=0000016955§ion_id=102&menu_id=102

機械翻訳


'誣告' 日本の 4100倍
[明日新聞 2005-04-11 10:57]

[明日新聞]

告訴濫発・偽証など嘘師範危険水位

#事例 1

去年 11月不倫事実が摘発された
40代家庭主婦金某(42)さんが誣告嫌疑で懲役 5月実刑を宣告受けた.

金さんは去年 3月総選選挙運動過程で会ったAさんと出来て
洋酒江陵等地に遊びに通った事実がご主人にばれるとこれを兔れるために
Aさんに性暴行あったと罪のない疑いだ.

裁判府は金さんが Aさんを拘束させるために虚偽証拠物を作るうえ
青瓦台検察総長前に陳情書を提出するなど罪質が不良で実刑を宣告する"その明らかにした.

#事例 2

去年 9月わいろ疑いで拘束されたこの某(50・無職)さんは
工事代金問題で建築業者神謀さんと争っている途中シンさんを相手で何回告訴を出した.

しかし李さん の告訴がいつも無嫌の処分にあうと
今度は警察と担当検事を相手で告訴を出すなど 1年余り間 30余順番や告訴を濫発した.
とうとう担当警察官が
李さんを誣告嫌疑で調査しようと思うと李さんは警察官に密かにわいろを渡して
これを根拠で警察官を脅かそうとしたがこれがぼろを出して拘束された.

'無条件告訴から欠点' '一応白を切ってみよう' などの
誤れた社会風潮があちこちにはびこって深刻な社会問題で飛話されている.

去る 1月 20日金僧規法務省長官が
出入り記者たちと会った席で "誣告・偽証など我が国の嘘師範問題が深刻だ"と
"どれは日本より数百, 数千倍が多い位なのにこんなことから変わらなければならない"
と明らかにした.

また最近最高検察庁では
法廷偽証や誣告事件が急増して対策作りに苦心していることと知られた.

各種統計を見ても問題の深刻性は明らかに現われている.
去る 2月最高検察庁によれば
全国検察庁が偽証疑いで起訴した人数は
2003年 1200人が殆ど過ぎ去って、去年には 1587人で大きく増えた.
32% 増えた数値だ.

また誣告師範は去る 2000年 5420件が起訴されたし,
毎年増加傾向を引き続いて去年には 6438件で 5年間 18.8%細かった.

刑事司法体系が類似の日本と比べて見ればもっと明らかになる.

法務省によると
去る 2000年基準で我が国で起訴された誣告割合は日本の 1,483倍だ.
ここに人口率を考慮すれば
可罰性ある誣告犯行発生率が日本の 4,151倍にのぼることで現われた.

偽証も同じだ.
起訴された偽証被疑者は日本の 240倍, 人口率を考慮すれば 671倍に達する.

これによる弊害は一つ二つではない.
告訴告発が濫発されながら毎年 50万~60万名の
被告訴人たちが発生して各種活動に差し支えを受けている.

これらは随時に
検察と法廷を行き交わなければならないし,
旅券発給にも差し支えを受けるなど被害が手強い.
また警察と検察など捜査人力の無駄使いは言うまでもない.

ソウル中央地検一刑事部部長検事は
"刑事部検事たち全部が財産関連告訴事件にぶら下げられていると言っても過言ではない"と
"これも足りなくて起訴にならなければ検事を告訴しそうだ"と説明した.

その上に民事裁判があっても
判決に承服しないで刑事告発 につながる場合がおびただしい.

見えない社会的費用支出はずっと大きいとのことが衆論だ.

金種区戦法武夫長官は
去年初発刊した <刑事司法改革では>という本で
"告訴事件による捜査力浪費がひどくて司法費用の増加が不可避だ"と
"その上に権利救済不十分から始まった国民不信と被告所である人権侵害など
弊害がこれ以上捨ておくことができない守衛に到逹した "と指摘した.

関係当局は非常事態になった.
最高検察庁は最近
誣告師範根絶対策用意を一線に指示したし,
ソウル中央地検と東西南北地検には専担検事まで配置した.

また法務省では政策企画団傘下に
告訴制度研究チームを別途構成して基礎資料分析を終えた状態だ.

また法務省政策研究委員会公式議題で
告訴濫発などを上程してもう三回や討論を経ったし,
来る 15日四次会議と月末に 5次会議をした後大体の政策方向を決める方針だ.

法務省関係者は
"現在我が国は告訴があまりにも多いから
選別審査など強制で流入を減らす方案は事実上不可能な状態"と指摘した後
"告訴事件に対する調停制度のも導入と民事訴訟実效性を高める方案を積極検討中である"と明らかにした.


/鄭在哲記者 jcjung@naeil.com

[オピニオン]ウソ天国 東亜日報 03/10/28

http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=100000&biid=2003122902698

国全体がウソの学習場だ。

一挙手一投足がマスコミに報道される
大統領などの指導層は、影響力が大きいウソの教師だ。

大統領候補は当選するために実現可能性のない公約を掲げ、
国会議員もライバル候補を落選させるためにウソを捏造する。

権力者たちは、天文学的な賄賂を受け取っても、
「1ウォンたりとも受け取っていない」と宣誓までする。
ウソの上手な国民を作るのが、国家の競争力を高める道だと勘違いしているようだ。

◆小学校でもウソの訓練をする。
小学3年生のK君は日記帳を2冊持っている。
一つは先生に毎日見せてチェックを受ける目的で書く日記帳だ。
もう一つは真実の書かれたプライバシーとして保管する日記帳だ。

K君が日記帳を2つ作るようになった理由は、先生が日記のテーマを
あらかじめ出して日記帳をチェックし、「よくできた」内容は掲示板に公開するためだ。

みんなに公開される日記帳に、自分だけの正直な話を書くことができるだろうか。

◆捜査機関や裁判所、議会の聴聞手続きなどで
ウソをつかせないことは、判断手続きの生命にかかわるほどほど重要だ。

にもかかわらず、制度的装置が不十分でウソの供述と虚偽証言が横行し、真実が歪曲される。

訴訟で当事者が宣誓しなければ、ウソを自由に言うことができる。
宣誓をした後、虚偽の供述をした時に受ける処罰は、過料わずか200万ウォン程度だ。
宣誓した証人が偽証することが日常茶飯事であるにもかかわらず、実際に処罰される場合はまれだ。
根拠のない虚偽事実をまき散らして相手に大きな被害を与えた政治家には、名誉毀損罪で罰金わずか数百万ウォンが宣告される。

国民には、「真実を知らせる義務」が
共同体のための「国民の義務」という認識も不十分だ。
事件の重要な目撃者が「他人のことに関わりたくない」と言って、証言をはばかる。

他の人々の不幸には見向きもしない。
一方、請託を受けたり、利害関係がある人を助けるためのウソには積極的だ。

◆真実を発見する道具としてウソ発見器が使われる。
しかしこれは、ウソに対する恐れ、焦り、良心の呵責によって表われる
生理的現象を測定して判断するので、良心がマヒした人格障害者には通用しない。
国全体がウソ発見器も通じない良心マヒ者を育てている土壌になっている。

暮らしの中でウソが積もれば、すべてに悪影響を与えるように、
韓国社会全般でウソが横行するようになれば、社会全体の健全な精神が崩れ落ちる。

一流国家に跳躍するには、国民の精神が崩れる前に、特段の措置が必要だ。

裵今子(べ・グムジャ)客員論説委員(弁護士)baena@chol.com


2005年11月07日

青邱図

朝鮮王朝時代後期の地理学者である金正浩が1834年に完成させた韓国全図が「青邱図」だ。

金正浩は、1830年代作成の地図、青邱図において「于山」を今日における竹嶼の繊細な描写をしたことで有名です。
『大東輿地図』は『青邱図』を元に作られたのであるが、『青邱図』が南北100里、東西70里に対し、『大東輿地図』は南北120里、東西80里となっている。『青邱図』に比べて山筋と河川網が非常に正確に記されていて

韓国日報は、高麗大学校附属図書館所蔵の『青邱図』には、対馬について次のような記述があると報じました。

朝鮮地誌の検討

の資料の題名が「朝鮮地誌略」ということは、おそらく朝鮮で発行された各種の地誌の要点を抜粋・整理したものでしょうから、于山島が「鬱陵島ニ隣ス」という記述も、朝鮮の文献または地図に基づく記述だということになりますね。

明治21年、陸軍参謀本部は、朝鮮全土の疆城、沿革、人口、教育、自然、物産等22項目の調査を行ない、「朝鮮地誌略」全 8 巻(和綴じ)という尨大な調査報告書を完成させた。これは将来予想される日清 ・ 日露開戦における戦略及び兵站の用に作成された

韓国軍がベトナムでした事

このページは書きかけのページです。


韓国軍がベトナムでした事

Gm遺伝子から探る日本人の起源

Gm遺伝子から探る日本人の起源

参考図表↓
http://www.narayaku.or.jp/narayaku/image/dna_map.jpg

1901年、オーストラリアのラントシュタイナーによって、
ABO式の血液型が発見され、それがメンデルの法則にしたがって遺伝する事が解った。
1918年、ポーランドのヒルシェフト夫妻は、血液型の分布が、民族によって相違する事を見いだした。

ヒト遺伝子に基づく集団にわけるという目的に、
きわめてよくかなう血液型として、「Gm遺伝子」がある。

免疫反応として、タンパク質の一種である抗体は、
細菌やウィルス等の異物が体内に侵入すると、特定の異物を選んで結合し、それを破壊する。

血液中のタンパクの一つであるガンマ・グロブリンは、免疫蛋白と言われ、
Gm遺伝子のGmはガンマ・マーカーの略で、ガンマ鎖の遺伝標識をもつという意味である。

抗体が持っている血液型「Gm遺伝子」の型は、人間集団によって、明確に異なっている。
また、同じ人類集団に属していても、民族集団が異なると、
その集団間で、遺伝子頻度が著しく違うという性格を持つ。

松本秀雄氏は、このGm遺伝子について、膨大なデータを集め、
日本民族の体内に保たれている「分子時計」の示すところをあきらかにされた。

松本秀雄氏は、およそ次のように述べる

1)Gm遺伝子の分布によって、蒙古民族は、「南方系」と「北方系」に大別される。
そして、日本民族は「北方系」である。
南方型蒙古系民族との混血率は、せいぜい7〜8%であって、それほど高いモノではない。

2)日本民族は、北海道から沖縄に至るまで、ことGm遺伝子に関する限り、驚くほど等質である。

3)アイヌの人々も、遺伝子構成に於いて、一般日本人と殆ど変わらない。

4)他の日本人集団と、幾分の相違を示すアイヌと沖縄・宮古の人々とがまったく等質である。

5)朝鮮民族も、地理的な隔たりが無い点に於いては、日本民族と同じである。
ただ、日本民族と朝鮮民族の間には、かなり高い異質性が存在する。
朝鮮民族は、基本的には日本民族と同じ北方型蒙古系民族に属するGm遺伝子パターンを持ちながら、それよりはるかに強く漢民族などの影響(混血)を受けていると見られる。
中国と朝鮮とのあいだの、相互移民や侵入などによって、海で隔てられた日本に比べ、北方少数民族や漢民族との混血の機会がはるかに多く、これが民族の形成に影響したと考えられる。


6)中国の場合は、Gm遺伝子の頻度分布に、南北方向の勾配がみとめられる。
漢民族の場合は、「北方型」と「南方型」の二つの型の存在を考えないと、分布パターンの説明が難しい。

7)日本民族に高頻度に見られる遺伝子パターンの特徴は、バイカル湖畔のブリアートをピークとして四方に流れており、蒙古、オロチョン、朝鮮、日本、アイヌ、チベット、コリヤークエスキモーに高頻度で、その源流はバイカル湖畔とするのが妥当と見られる。

そして、松本氏は次のように結論する

「日本民族は、北方型蒙古系民族に属し、
そのおおもとの起源は、シベリアのバイカル湖畔と推定できる。



新説!日本人と日本語の起源、安本美典著より
2005年02月10日

このアーカイブについて

このページには、2011年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

次のアーカイブは2011年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。