跪き

ブラント首相のワルシャワ・ゲットーでの真意は、、、?
「私は、ポーランド側を困惑させたようだ」

相殺された過去
議会演説は日程にはなく、ブラントは、その7日の晩餐会のスピーチでポーランド首相に語りかけた。

「今日は、我が国民と私自身にとって、あなたの国民に与えられた大きな苦難、そしてまた、
我が国民が味わなければならなかった重い犠牲について、痛ましい記憶を思い起こさせる日です。....
1939年以降の数年間は、比べるものない、最も暗い期間でした。それを消し去る事は出来ません。」

ドイツ政府に残るスピーチ公式記録によると、第二次大戦についてのくだりは、これだけだ。
「我が国民が味わなれればならなかった重い犠牲」という言葉が注目される。
単に戦災にあったと言うだけではなく、ポーランド人によるドイツ人への非道な行為も暗に指しているはずだ。

ソ連の独裁者スターリンは、占領したポーランド東部の領土を戦後も手放そうとはしなかった。
その代わり、ポーランドに対し西部で埋め合わせをしてやるため、ドイツとの新国境をオーデル・ナイセ線とする事を主張した。
これにより、ドイツは領土のおよそ4分の1を失う事になり、そこにいたドイツ人住民は、強制的に移住させられた。
西側連合国も、これを容認した。

ドイツ政府のデータによると、この新ポーランド領を含め、終戦時にソ連・東欧地域にいたドイツ人1173万人が今のドイツ領内へ追放された。
そのさい、ヒトラー時代の報復としてリンチや強姦が行われ、衰弱死、病死をあわせドイツ人210万人が死亡または不明となった。
ブラントの晩餐会のスピーチでは、謝罪どころかドイツ人の犠牲を持ち出し、侵略の相殺を試みたようにさえ思われる。
では、何故、跪いたのだろうか?

「ポーランド侵略への許しを請うものだったと、見なす事は出来ないと思います」
とうのユダヤ人社会は、どう考えたのだろうか?
ドイツ国内で発行されている「ユダヤ人一般週刊誌」(AJW)のユディット・ハルト編集長は言う。
「ポーランド人ではなく、ユダヤ人犠牲者に向けられたものでした。
もちろん、ポーランド市民権を持っていたユダヤ人もいましたが、ポーランドでは反ユダヤ主義がはびこっており、
彼らの殆どは、自分が社会の一員だとは考えていなかったのです。」

回想録でブラントはこう続けている。
「私は、ポーランド側を困惑させたようだ。
あの(跪きの)日、ポーランド政府の誰も、それについては話しかけなかった。
したがって、彼らも歴史のこの部分を、まだ清算してはいないのだ。と私は判断した」

戦後の一時期も、ポーランドの共産主義政権によって、反ユダヤ政策がとられた。
つまり、対ユダヤ人に関しては、ポーランドの政府も国民ももどちらかと言えば、加害者の立場にあった。
ゲットー記念碑の前での跪きが「ポーランド側を困惑させたようだ」とブラントが記したのは、そのためだったと思われる。

このブログ記事について

このページは、rekichiが2011年6月 7日 18:46に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「「白村江の敗戦」についての倭国の認識と、新羅の半島統一までのあらすじ」です。

次のブログ記事は「宋書 百済伝の読み」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。