論語と千字文について

論語と千字文について(『千字文』が成立するのは六世紀)、
王仁と阿直岐

百済から
漢文の書籍などが贈られたことを記す文献に
『古事記』(712年)と『日本書紀』(720)がある。

『古事記』には応神天皇の条に、
百済から和邇(王仁)が渡来して
『論語』と『千字文』を献上したことを次のように記している。

百濟國 若有賢人者貢上 故 受命以貢上人名
和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進

百済の国王は、太刀と大鏡を献上した。
また天皇は百済国に、「もし賢人がいるならば献上せよ」と仰せになった。
そこで、その仰せを受けて献上した人の名は、和邇吉師(わにきし)である。
『論語』十巻、『千字文』一巻を、この人に持たせて献上した。

また、これと内容的に関連する記事を『日本書紀』は次のように伝えている。

十五年秋八月の壬戌(じんしゆつ)朔(ついたち)の丁卯(ていぼう・六日)に、百済王は阿直岐(あちき)を派遣して、良馬二匹を献上した。
(中略)
阿直岐はまた、よく経典を読んだ。
それで太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は阿直岐を師とされた。
そこで、天皇は阿直岐に問われて、「もしかしてそなたよりも勝れた学者はほかにいるか」と仰せられた。
答えて、「王仁という人がいます。これは秀れた人です」と申しあげた。
それで上毛野君(かみつけののきみ)の祖荒田別(あらたわけ)・巫別(かんなぎわけ)を百済に派遣して王仁を呼びよせた。
この阿直岐は阿直岐史の始祖である。

十六年春二月に、王仁は来朝した。
そこで太子は菟道稚郎子は王仁を師とされ、種々の典籍を王仁より習われた。
その結果、すべてに精通された。
王仁は書首(ふみのおびと)の始祖である。

つまり、応神天皇十五年の秋八月に
百済から阿直岐(阿知吉)が来朝したが、
彼はよく経典を読んだので太子は彼に師事した。

また翌十六年二月には阿直岐の推挙によって王仁が来朝し、
太子は王仁について諸典籍を学んだが、深くすべての道に通じるようになった、というのである。

ここに言う応神十五年は
『日本書紀』の紀年(皇紀元年[西暦紀元前660年]から数えた年数)では
西暦284年に相当するが、おそらく120年ほどの誤差があって、実際には五世紀初頭のことであったろうと考えられている。

これらの記事がどの程度まで史実に忠実であるか、疑問はのこる。

ただ『古事記』で
照古王(肖古王)が献上したと述べる太刀と大鏡が、
関連させて考えられている前引の『日本書紀』に記されている
七枝刀(ななさやのたち)と七子鏡(ななこのかがみ)と同じものとすれば、
その銘文に記されている泰和、つまり大和四年(369)は、百済王が日本とともに高句麗を攻撃した年にあたる。

したがって、阿直岐・王仁に関する話は、
多少の脚色はあっても、日本が朝鮮に進出していたころとだいたい時は重なる。

すなわち
四世紀末ないし五世紀の初めのころには、
阿直岐や王仁のような百済からの学者によって、
すでに朝鮮半島に伝わっていた漢籍が日本にももたらされ、
一部の上層階級の人によって、本格的な漢字・漢文の学習が行なわれはじめた
と推測しても大きな誤りはないであろう。


『千字文』の伝承をめぐる謎

ところで、この『千字文』については疑問が二つある。
その一は『千字文』が最初に日本列島にもたらされた年代についてである。

『千字文』の作者である梁の周興嗣(しゅうこうし)は、
劉宋の末、西暦470年ごろに生まれ、梁の普通二年(521年)に没した学者である。

先に述べたように、『千字文』が渡来したのは、
『日本書紀』によると応神天皇十六年(284?)のことであった。

第一代の神武天皇が即位した年、
つまり皇紀元年を西暦紀元前660年とする日本古代史の紀年を
そのまま信じれば、応神天皇十六年は西暦285年(西晋・武帝の太康六年)にあたる。
この年は周興嗣の死より230年も前になる。

このくいちがいについては、日本では江戸末期から論じられてきた。
これまでの見解は次のように大きく三つに分かれる。

その第一は、『千字文』と記したのは
『古事記』の誤りであって、日本に伝えられたのは『千字文』よりもっと古く、
中国で編まれた同類の字書(識字のテキスト)である前漢・司馬相如(しばしょうじょ)の
『凡将篇』(はんしょうへん)、前漢・史游(しゆう)の『急就篇』(きゅうしゅうへん・『急就章』とも)か、秦の『蒼頡篇』(そうきつへん)であったとする説である。

第二は、
梁の武帝(在位502〜549)以前から、
周興嗣の『千字文』の原型があったとする説である。

周が『千字文』を著したことは、
正史の『梁書』の列伝や他の史料に明記されているが、これに対する異説である。

その作者とされるのは
魏の「鍾よう」(151〜230)である。
彼は曹操が袁紹(えんしょう)と戦ったとき、
馬二千匹余りを届けさせたと『三国志』に登場する政治家・書家である。

『宋史』「李至伝」によれば、
梁の武帝が、鍾ようの筆跡が石碑に刻されていたのから拾って、
それらの字を周興嗣に命じて韻文につづらせたもの、それが『千字文』だという。
同じ説は他の史料にもみえる。

また小川環樹によれば、日本に伝わった古写本の、
六世紀後半の学者といわれる李暹(りせん)による序文は
「千字文は魏の大尉「鍾よう」の作る所」であって、洛陽の宮中に秘蔵されていた
「鍾よう」の筆跡を東晋の元帝(在位317〜322)が秦の王義之(おうぎし・307?--365?)
に命じてその写本をつくらせ、その文字を文意が一貫するように組みかえて別の韻文にしたのが周興嗣であると述べる。

この説にしたがえば、『日本書紀』中の『千字文』は「鍾よう」が著したものとなる。
ただ、この書は偽作であるとする説もあり、いまは偽作説のほうが有力である。

第三の見解、それは、日本古代史の紀年が故意に初期の天皇の治世を引きのばした結果、大きなくいちがいが起こったとする説である。
今日ではこの見解が広く認められているようである。


もう一つの疑問は、『千字文』が日本にもたらされた事情である。

『論語』は言うまでもなく儒学のもっとも基本的な聖賢の書である。
いわば中国の精神文化を端的に伝える書物として贈られたと理解できるが、それと並んで『千字文』が選ばれたのは何故であろうか。

「天地玄黄、宇宙洪荒」
(天の色は黒く、地の色は黄色であり、空間や時間は広大で、茫漠としている)
ではじまる『千字文』は、四言(四字句)の韻文でつづられた一千字が集められていて、久しいあいだ中国の(のちには朝鮮や日本でも)児童たちが漢字を学ぶテキストとして用いられてきたことで知られる。

しかし、もともとは、漢字のテキストではなく習字の手本として作られたらしい。
唐の「李しゃく」の『尚書故実』は次のように記している。

梁の武帝は王子たちに書を習わせるため、王義之の筆跡の中から重複しない文字一千字の標本を作らせたが、一時ずつの破片であって、ばらばらで順序はなかった、
武帝は周興嗣をよび出し、「これを韻文になるように考えてくれ」といった。
そこで周興嗣は一晩かかってこの一千字を用いた整然たる韻文一篇を作り、武帝にたてまつったが、その苦心のため髪の毛がまっ白になった、という。
(小川環樹『千字文』「解説」による)

記事に登場する王義之は書聖と呼ばれ、「蘭亭集序」などで知られる東晋の書家である。
『千字文』を識字のテキストとしてみるならば、すでに指摘されているように、そこに収められている一千字は十分ではない。

数字でも一から十までのうち、一・三・六・七が欠けている。
方位を示す字として「東・西・南」はあるが「北」がない。
四季を示す「夏・秋・冬」はあるが、「春」がない。
「海・川」はあるが「山」がない。
このように必要と思われる実用字が欠けていて不完全なものと言わざるをえない。

にもかかわらず、この書はだんだんと広まっていった。
識字のテキストとしては、前漢・元帝(在位、前48〜前33)の世の人、「史ゆう」が編んだ『急就篇』が北朝で大変流行していた。
大学者として名高い顔之推(がんしすい・531〜602?)もその注を著したほどである。(『唐書』「経籍史」)。

ところが、南朝で新たに作られた『千字文』は『急就篇』にとってかわり広く用いられるようになった。
その理由は、小川環樹も指摘するように、何よりも用字が多方面にわたっているうえに、故事、古人の逸話などをよみこんだ美文であり、韻をふんでいるので朗読し暗記するのに適した読本であったからであろう。
『急就篇』も韻文になってはいたが、同類の字を並べた分類語彙集のようなもので、巧みにつづられた『千字文』にはとても及ばなかった。

さらに『千字文』が中国で流行したもう一つの原因は、右で引いた史料の説が正しければ、それが王義之の筆蹟を集めたもので、東晋からの新しい草書体の手本とされたからであろう。

このように中国で大いに重んじられた『千字文』は南朝と交流のあった百済にもたらされた。
百済の人々は『千字文』をただの識字テキストではなく、豊かな土壌に育まれた、まさしく <漢字文化> の精髄を伝える書として受け止めたのではないだろうか。
そのような認識があったからこそ、日本に贈る書物の一つとして『千字文』を選んだのではないかと思われる。

このような背景を理解すれば、いささか不釣合いな感じを受ける儒教の経典と識字テキストの組み合わせも納得がいく。

以上が第二の疑問に対する一応の回答である。
やがて日本でもこの書は漢字学習のために広く用いられるようになる。

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このページは、rekichiが2011年6月 7日 20:58に書いたブログ記事です。

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