対馬はどこに所属している国やねん?

1420年頃・当時の曖昧な対馬の境界的な性格について
対馬はどこに所属している国やねん?日本OR朝鮮?

1419年「応永の外寇」の後、対馬と朝鮮の関係が一時断絶する。

こうなると困るのは、
朝鮮との交易を主な生活の手段としている対馬人の方で、なんとか交易を復興させようとする。

そこで1420年、
「時応界都」または「辛戒道」?なる対馬人が、
宗都都熊丸(後の貞盛)の使者と称して、朝鮮へ渡った。

時応界都は、
「対馬島は土地が痩せており、生活がとても困難です」と訴え
「もし我が島を、貴国境内の州都と同様の一州として、
都都熊丸に印章を賜れば、貴国に臣としての節義を尽くしましょう」、、、と上宣した。
(世宗2閏正己卯)

これを受けた国王・世宗は、対馬を慶尚道の所属として、
上申は必ず同道観察使を介するように命じて、「宗氏都都熊丸」 という印文の印章を対馬へ送った。
(閏正壬辰)


ところが、その後、都都熊丸の意を受けた別の使者・仇里安が現れ、この措置に強く抗議した。

礼曹問う。
「前書曰く、『対馬島が慶尚道に隷するの語、
これ史籍に考え、之を父老に訊くも、実に拠る所なし』と。

本島の慶尚道に隷するは、古籍に昭然たり。
且つ、汝の島の使者・辛戒道亦言う、『本島は、もと大国牧馬の地なり』と。
故に此より前、汝の島をして、
凡そ事、皆慶尚道観察使に報じて以て、聞せしむるは、此を以てなり。
朝廷、汝の土地を争わんと欲するにあらざるなり」と。

仇安里曰く
「本島の慶尚道に属する事、己の知らざる所なるに、戒道、豈に能く独り知らんや。
必ず是れ妄言ならん。
仮に本島をして慶尚道に属せしむると雖も、
若し無綏(ぶすい)せざれば、必ず声教に外(はず)れん。
本より属さずと雖も、若し是を撫するに恩を以てすれば、誰か敢えて服せざらん。

対馬島は日本の辺境なり。
対馬島を攻めるは、是れ本国を攻めるなり。.....」
(世宗34己亥)

仇安里は
「辛戒道の言は、こちらの関知する処ではない。
対馬が慶尚道に属するなどという説は、史
籍をひっくり返してみても、長老に尋ねてみても、全然、根拠が解らない」
と主張した。

朝鮮側は、
「その事は古籍にはっきり書いてあるし、慶尚道の所轄としたい」と説明した。
しかし、仇安里は納得しない。
ついに、
「対馬は日本の辺境だから、対馬を攻める事は、日本の本国を攻める事と同じだ」と言い出した。

この問題は、
対馬側の強硬な申し立てに朝鮮側が折れ、
対馬の所属は元通りとなって、決着した。

しかし、「対馬は日本の所属」という命題を、朝鮮側が呑んだわけではない。

後に編纂された官撰の地誌『新増東国興地勝覧』では、
対馬島は釜山浦などと共に、慶尚道東莱県の項に掲げられている。

「則ち日本国対馬州なり、旧(もと)我が鶏林(慶州の雅名)に隷す。
未だ、何時に倭人の拠る処と為ったのかを知らない」、、、と説明されている。

また、1524年の政府高官の発言に、「日本・対馬は輔車相依の国」とある。
(中宗37-5乙未)

このように、対馬を日本とは別の独自の領域だとする見方は、朝鮮側では常識だった。


倭人の側にも、この見方をする者がいた。
辛戒道の発言に明らかだ。
彼が宗氏の使者だというのは偽りで、
対馬で朝鮮交易に携わっていた人々の中で宗氏とは違う立場を代表する者だと考えられる。
彼らにとって、対馬が日本・朝鮮のどちらかに属するか?
といった事より、朝鮮半島との交易を維持する事こそが大事だった。

日本人にも、大内氏のような西国大名の口からも、
「さきに聞く、大内殿に言あり、「対馬島はもと朝鮮の地なり。
我、兵を興して往伐せん。
朝鮮、之を挟撃して、以て牧馬の島と為すが可なり」、、、、、と。

この時1451年。
大内殿は教弘(のりひろ)で、
1447年頃には幕府から筑前守護職に任ぜられて、宿敵の少弐教頼を対馬へ追い払っていた。

少弐教頼は宗貞盛を頼って対馬に逃げたわけで、
少弐=宗のラインに対抗して、大内氏が政治的意図から発言したわけだ。


かといって、朝鮮側も素直に喜べなかった。

大内氏が少弐=宗に勝った場合、
敗者は必ず窮寇となって、あちこちで海賊行為に走るだろう。
そのうえ、対馬島は日本の片隅にあり、我が国の鎮防となっている者も多い。
これが負ければ、、どのような倭の変が起こるか解らない。

この2年後、大内教弘は、朝鮮国王・端宗から、
通信符を与えられ、朝鮮通交上ぬきんでた優位を獲得した。

中世倭人伝 岩波新書 新赤版 (274)村井 章介著より 改編
2005年02月25日

このブログ記事について

このページは、rekichiが2011年6月 7日 19:03に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「宋書 百済伝の読み」です。

次のブログ記事は「新羅本紀第三・第十七代 奈勿 尼師今」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。