新羅本紀第三・第十七代 奈勿 尼師今

新羅本紀第三・第十七代 奈勿 尼師今(在位 AD356-402)

2年(AD357) 二年 春 發使撫問鰥寡孤獨 各賜穀三斛 孝悌有異行者 賜職一級

2年 春、使者を派遣して男やもめと孤独な者を慰問し、それぞれ穀物三斛を賜った。
孝行者、長者に従順なもの、優れた行いの者に、職一等級ずつを賜った.。
(斛=石)

3年(AD358) 三年 春二月 親祀始祖廟 紫雲盤旋廟上 神雀集於廟庭

3年 春2月、王自ら始祖廟を祭ると、紫色の雲が廟上に丸く立ちこめ、神雀が始祖廟の庭に集まって来た。

7年(AD362) 七年 夏四月 始祖廟庭樹連理

7年 夏4月、始祖廟の庭にある二本の木の枝が一つに連ねた。

9年(AD364) 九年 夏四月 倭兵大至 王聞之 恐不可敵
造草偶人數千 衣衣持兵 列立吐含山下 伏勇士一千於斧峴東原
倭人恃衆直進 伏發撃其不意 倭人大敗走 追撃殺之幾盡

9年 夏4月、倭の兵が大挙して侵入してきた。
王がこの報告を聞いて、(倭軍の兵力に)対抗することができないことを考慮して、草人形を数千個も作り、服を着せて、兵器を持たせ、吐含山の麓に並べ、勇士一千人を斧峴の東野原に伏せておいた。
倭人が自陣の数の多さを信じて直進すると、隠れていた兵士が不意打ちの攻撃をしかけた。
倭軍は大敗して逃走したので、追撃して倭兵をほとんど殺した。

11年(AD366) 十一年 春三月 百濟人来聘 夏四月 大水 山崩十三所

11年 春3月、百済人が来訪した。
夏4月、大水になって13ヶ所て山崩れがあった。

13年(AD368) 十三年 春 百濟遣使 進良馬二匹

13年 春、百済は使者を派遣して、良馬二匹を捧った。

17年(AD372) 十七年 春夏大旱 年荒民飢 多流亡 発使開倉廩賑之

17年 春から夏にかけ大旱魃があり、穀物が稔らず、民は飢えてさすらうものが多かったので、使者を派遣して、穀物倉庫を開いて彼らに施しを与えた。

18年(AD373) 十八年 百濟禿山城主 率人三百来投 王納之 分居六部
百濟王移書曰 両國和好 約為兄弟 今大王納我逃民 甚乖和親之意 非所望於大王也 請還之
答曰 民者無常心 故思則来歝則去 固其所也
大王不患民之不安 而責寡人 何其甚乎
百濟聞之 不復言
夏五月 京都雨魚

18年 百済禿山城の城主が300人を率いて来降してきて、王は彼らを受け入れて六部に分けて住まわせた。
百済王が国書を送って言った。
「両国が国交を結び、兄弟になることを約束したが、今大王は我が国から逃げた民を受け入れている。
和親の意味とははなはだしく乖離しているが、これは大王の望むところではないだろう。どうか彼らを返してほしい。」
(王が) 答えて言った。
「民には決まった心がない。だから思えば来るし、嫌になれば去る。
(彼らの欲する)ところに安住するものです。
大王は(あなたの国の)民の不安に配慮しないで、私を何故そんなに強く責めるのですか?」と言った。
百済ではその返事を聞いて二度と言わなかった。
夏5月、王都に魚が降った。

21年(AD376) 二十一年 秋七月 夫沙郡進一角鹿 大有年

21年 秋7月、夫沙郡が一角の鹿を捧った
大変に豊作年になった。

24年(AD379) 二十四年 夏四月 楊山有小雀 生大鳥

24年 夏4月、楊山で小さな雀が大きい鳥を生んだ。

26年(AD381) 二十六年 春夏旱 年荒民飢
遣衛頭入符秦 貢方物 符堅問衛頭曰
卿言海東之事與古不同 何耶
答曰 亦猶 時代変革 名號改易 今焉得同

26年 春から夏にかけて日照りが続き、穀物が稔らず、民たちが飢えた。
衛頭を符氏の秦国に派遣して、物産を捧げた。
符堅が衛頭に問うた。
卿は海東の事情を報告したが、(国名が)昔と同じでないのは何故か?

[衛頭が] 答えた。
このことは丁度、中国の王朝の変革や、国号の改変のようなもので、、(昔のことと)今とはどうして同じでいられましょうか?



33年(AD388) 三十三年 夏四月 京都地震 六月 又震 冬 無氷

33年 夏4月、王都に地震が起きた。6月にまた地震が起きた。
冬に氷がはらなかった。

34年(AD389) 三十四年 春正月 京都大疫 二月 雨土 秋七月 蝗 穀不登

34年 春正月、王都で疫病が流行した。
2月に土が雨のように降った。秋7月、蝗の災害が発生し、穀物が稔らなかった。

37年(AD392) 三十七年 春正月 高句麗遣使 王以高句麗強盛 送伊大西知子實聖為質

37年 春正月、高句麗が使者を派遣してきた。
王は高句麗の国力が強大な、伊の大西知の息子・実聖を人質として送った。

38年(AD393) 三十八年 夏五月 倭人来圍金城 五日不解 将士皆請出戰
王曰 今賊棄舟深入 在於死地 鋒不可當 乃閉城門 賊無功而退
王先遣勇騎二百 遮其歸路 又遣歩卒一千 追於獨山 夾撃大敗之 殺獲甚衆

38年 夏5月、倭人が侵入してきて金城を包囲し、5日間も解かなかった。
将軍達はみな外へ出て戦いたいと願ったが、
王は「今、賊軍は船を捨てて 内陸の深くへ入り込んで、いわゆる死地にいるから、その鉾先は防ぐことができない」と言って、城門を閉ざして、(持久戦に持ち込むと)賊軍は成果がなく退いた。

王は先ず勇敢な騎兵200人を先に派遣して、賊軍の帰路を阻んで、歩兵一千人を派遣して独山にまで追いこんで、挟み撃ちにして倭軍を大敗させ、多くを殺したり捕らえたりした。

40年(AD395) 四十年 秋八月 靺鞨侵北邊 出師 大敗之於悉直之原

40年 秋8月、靺鞨が北部国境を侵犯したので、軍隊を出して、彼らを悉直の原野で大敗させた。

42年(AD397) 四十二年 秋七月 北邊何瑟羅 旱蝗 年荒民飢 曲赦囚徒 復一年租調

42年 秋7月、北部地域の何瑟羅では、日照りが続き、蝗の害で穀物が実らず、民は飢えた。
そこで特別に囚人を許して、一年間の租と調を兔除した。
(何瑟羅=かしつら・江原道江陵市)

44年(AD399) 四十四年 秋七月 飛蝗蔽野

44年 秋7月、蝗が飛んで原野を覆った。

45年(AD400) 四十五年 秋八月 星孛于東方 冬十月 王所嘗御内廐馬跪膝流涙哀鳴

45年 秋8月、星が東方で光輝いた冬
10月、王が内廐の馬に乗ったところ、ひざまずいて涙を流して哀れな声で泣いた。

46年(AD401) 四十六年 春夏旱 秋七月 高句麗質子實聖還

46年 春から夏にかけて日照りが続いた。
秋7月、高句麗の人質になっていた実聖が帰国した。

47年(AD402) 四十七年 春二月 王薨

47年 春2月に王が薨去した。
2005年5月29日

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